近藤 雪竹 こんどうせっちく
   

松竹梅歳寒三友
桃李杏春風一家
大正丙寅菊秋書於華朝莊
松竹梅は歳寒三友
桃李杏は春風一家
大正丙寅(=大正15年)菊秋(=陰暦9月)書於華朝莊
 歳寒三友は、南宋の12世紀後半に画題として成立した。墨松・墨竹・墨梅の伝統の上に立って、これらを水墨画として一画面上に画き、世に大いに流行した。これは、『論語』子罕編に「歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るるを知る」とあり、松柏は困難の時にあってなお緑を絶やさない、君子の高節の象徴であったが、この松に竹と梅を加えて三友としたものという。
 また一説に『論語』の中に「益者三友損者三友」という言葉があり、この三人の友を松竹梅にたとえているという。厳しい時の三人の友を歳寒三友とし、その第一の友とは「多聞の友」で、知識が豊かで冷静に判断をしてくれる友。すなわち原理原則を教えてくれる友(師)で、より安全な間違いの少ない正しい方向を示してくれる友。第二の友は「諒なる友」で、義侠心が強く、困った時にまるで自分のことのように親身になって相談に乗り、かつ動いてくれる友。第三の友は「直なる友」で、我が国では「物くれる友」と訳している。そしてこの様な三人の友を持つことは、例え自分が厳しい立場に立たされても決して悲観することがない人生が送れると言う謂れをもっている。
119.3p×47.4p

文久3年6月20(新暦 1863年8月4日)日生〜昭和3年(1928)10月14日歿
制作年 大正15年(1926) 64歳
 名は富寿、字は考卿。江戸(山形藩水野候邸内)の生れ。幼少より学問を好み、紀州藩儒井上葦齋について漢学を学んだ。書は明治12年17歳のとき、日下部鳴鶴の門に入り、傍ら巌谷一六にも益を受けた。漢魏六朝の墨蹟を研究して諸体をよくし、特に隷書では他に比類ないほどの妙手といわれ、天来・海鶴と共に三羽烏として知られた。
 明治18年23歳のときから61歳まで39年にわたって逓信省に勤務するかたわら、書道奨励会審査員・日本書道会及び文墨協会幹事・日本書道作振会、戊辰書道会等でも活躍した。門人の数は3000人と称され、辻本史邑、松本芳翠、佐分移山らが輩出した。
 著書に『楷書前赤壁賦』『行書蘭亭帖』『四体四時読書楽帖』などがある。
 「雪竹富寿」の左に、白文の「富寿印」、朱文の「子考」の落款印が押されている。

推奨サイト
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http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=ko&s=160
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-919.html


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